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御霊信仰とは?読み方と863年の御霊会|八所御霊は神社ごとに違う

御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、無念の死を遂げた人の霊を神として祀り、災いから守る存在へ転じてもらう信仰。記録上最初の御霊会は863年の神泉苑で、『日本三代実録』に残ります。六所御霊の顔ぶれ、そして上御霊神社と下御霊神社で八所御霊が一致しない事実まで解説します。

文・三森 捷暉

御霊信仰とは?読み方と863年の御霊会|八所御霊は神社ごとに違う
御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、無念のうちに世を去った人の霊を神として手厚く祀り、災いをもたらす存在から人々を守る存在へ転じてもらう信仰です。

日本の怨霊観のいちばん独特なところが、ここにあります。恐ろしい相手を封じ込めるのではなく、位を贈り、社を建て、神として迎え入れてしまう。この記事では、その始まりと、いま各地に残る姿を、典拠を示しながらたどります。

御霊信仰 早見表

項目内容
読み方ごりょうしんこう(御霊会は「ごりょうえ」)
何をする信仰か祟るとされた霊を神として祀り、守護神へ転じてもらう
記録上最初の御霊会貞観5年(863年)5月20日・神泉苑
典拠『日本三代実録』
六所御霊の筆頭崇道天皇(早良親王)
主な神社上御霊神社・下御霊神社(京都)
発展形祇園御霊会 → 祇園祭

863年、神泉苑 ― すべての始まり

記録に残る最初の御霊会は、貞観5年(863年)5月20日、神泉苑で営まれました。朝廷主催です。典拠は正史『日本三代実録』。

内容が興味深い。『金光明経』『般若心経』の読経という仏教儀礼に加えて、歌舞音曲が奏され、民衆も参加して踊ったと記録されています。

つまり御霊会は、鎮魂の儀礼であると同時に、祭りでもあった。厳粛に封じるのではなく、にぎやかに迎えて楽しませる。これが後の祇園祭——祇園御霊会——へとつながっていきます。日本の祭礼の多くが、この鎮魂と芸能の結合を出発点に持っています。

六所御霊 ― 誰が祀られたか

863年の御霊会で祀られた六柱を、六所御霊といいます。

御霊実在の人物
崇道天皇早良親王。桓武天皇の弟。廃太子され、無実を訴えて絶食のうちに没した
伊予親王桓武天皇の皇子。謀反の嫌疑で母とともに幽閉され自害
藤原大夫人藤原吉子。伊予親王の母
橘大夫橘逸勢。承和の変で流罪、配流途上に没した
文大夫文室宮田麻呂。謀反の嫌疑で流罪
観察使藤原仲成または藤原広嗣(異説あり)

全員が、政争に敗れて非業の死を遂げた人々です。そして筆頭が早良親王——日本の怨霊信仰は、この人から始まったと言ってよい。

なお六人目の「観察使」が誰を指すかについては、藤原仲成説と藤原広嗣説があり、確定していません。断定している解説は根拠を確認したほうがよいでしょう。

八所御霊は、神社ごとに顔ぶれが違う

ここが、ほとんどの解説記事が触れていない点です。

後に六所御霊へ二柱を加えた八所御霊が成立しますが、その顔ぶれは神社によって一致しません。

上御霊神社下御霊神社
1崇道天皇吉備聖霊
2井上大皇后崇道天皇
3他戸親王伊予親王
4藤原大夫人藤原大夫人
5橘大夫藤大夫(藤原広嗣)
6文大夫橘大夫
7火雷神文大夫
8吉備大臣(吉備真備)火雷天神

井上大皇后・他戸親王を数える上御霊神社に対し、下御霊神社は伊予親王・藤大夫を数える。共通するのは崇道天皇・藤原大夫人・橘大夫・文大夫の四柱だけです。

これは矛盾ではなく、御霊信仰が中央の公式教義ではなく、地域と時代のなかで育った信仰であることの証拠です。誰の無念を鎮めるべきかは、その土地の記憶によって変わります。

両社とも863年の神泉苑御霊会を創祀とし、上御霊神社はさらに延暦13年(794年)の早良親王奉斎に遡るとも伝えられます。なお上御霊神社の境内は、応仁の乱の発端の地(1467年、畠山政長が布陣)としても知られています。

三大怨霊は、この後にやってくる

御霊信仰の成立は9世紀。そして日本三大怨霊とされる菅原道真(903年没)・平将門(940年没)・崇徳天皇(1164年没)は、いずれもその後の人です。

つまり道真も将門も崇徳院も、すでに「無念の霊は祀って鎮める」という作法が確立した社会に登場しました。北野天満宮が建てられ、将門塚が守られ続けたのは、この作法があったからです。

早良親王が枠組みを作り、道真たちがその枠組みで扱われた。これが時系列の実際です。

鎮めるとは、聞き届けること

御霊信仰の作法をよく見ると、やっていることの本質が見えてきます。位を贈り、社を建て、祭りを営む。それは封じ込めではなく、無念を公に認める手続きです。

怨霊として恐れられたのは、多くの場合「言い分を聞かれないまま終わった人」でした。だから鎮めるには、力でねじ伏せるのではなく、その言い分を受け取る必要があった。

この順番は、人の感情にもそのまま当てはまります。否定されるほど濃くなり、受け取られることで静まる。聞いてくれる相手がいないときは、せめて自分で書き留めておく。悲しみの行き場がないときや分かってもらえない孤独もあわせてどうぞ。

出典・参考

  • 『日本三代実録』(863年 神泉苑御霊会の記録)
  • 『デジタル大辞泉』小学館/『日本大百科全書』小学館(「御霊信仰」「八所御霊」の項)
  • 上御霊神社・下御霊神社の祭神について(各社の由緒)

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#呪いの民俗#御霊信仰#怨霊#日本史
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FAQ

よくある質問

Q.御霊信仰とは何ですか?

政争などで無念のうちに世を去った人の霊が災いをもたらすと考え、その霊を神として手厚く祀ることで、災いをもたらす存在から人々を守る存在へ転じてもらおうとする信仰です。封じ込めるのではなく、迎え入れて鎮めるという発想に特徴があります。

Q.読み方は?

御霊信仰は「ごりょうしんこう」、御霊会は「ごりょうえ」と読みます。「みたま」ではありません。ここは検索でもよく確認される点です。

Q.最初の御霊会はいつですか?

記録上最初の御霊会は、貞観5年(863年)5月20日に神泉苑で営まれた朝廷主催のものです。『日本三代実録』に記されています。『金光明経』『般若心経』の読経に加え、歌舞音曲と民衆が参加する踊りが行われました。鎮魂の儀礼と祭礼・芸能が結びつく起点でもあります。

Q.六所御霊とは誰のことですか?

863年の御霊会で祀られた六柱で、崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原大夫人(藤原吉子)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)、そして観察使です。観察使が藤原仲成か藤原広嗣かについては異説があります。

Q.八所御霊は神社によって違うのですか?

違います。上御霊神社は崇道天皇・井上大皇后・他戸親王・藤原大夫人・橘大夫・文大夫・火雷神・吉備大臣を、下御霊神社は吉備聖霊・崇道天皇・伊予親王・藤原大夫人・藤大夫・橘大夫・文大夫・火雷天神を祀っています。同じ「八所御霊」でも顔ぶれが一致しません。

この記事を書いた人

森

三森 捷暉みつもり かつき

株式会社スリスタ 代表/ドヤマーケAI 運営

実務で使えるAIサービス群「ドヤマーケAI」を運営し、記事・広告・営業・人事からAI検索可視化までを手がける。YouTubeチャンネル『SaaSは死にましぇん』を発信。感情を書いて手放すアプリ「呪い日記」の企画・開発者。

この記事は民俗・言葉・文化の解説です。医療・法律・宗教上の助言ではありません。伝承は文化として紹介するもので、他者を害する手順を推奨するものではありません。出典のない通説は「俗説」と明記しています。

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